2014年01月01日

この世は霊の世界に浸かっていると云う意味





私の云うところのノウハウ事件に関して、現在(2011年月)に至るまでに内定が行われたか?どうか?知りません。推理するしか仕方がないのです。内偵がが行われていれば、自称養父の絡みの件は、真実は私しか知らないことです。(二者間の事柄ですから当然です)内偵にしろ事情聴取行われなければ、偏見による判断が生じ私が不利になります。したがってホームページにて自分の主張すべきことを主張しているのです。不法行為と断罪するならばこれは、この世的にはどうあろうとも、霊的には国家の犯罪になります。国松元警察庁長官は私と同年輩で、とっくの昔に退官しているはずですが、霊的な責務はこの世に生存していても、あの世に還っても残るのです。そうでなくては霊存在の意味はないのです。この世に生存しているままに霊の世界の掟の支配を受けると云うことは、即ち、この世は霊の世界に浸かっている証しになります。スポンジが水の中に浸かっている除隊を霊に採れば、霊の世界が池で水がエネルギーであり、スポンジの中がこの世になります。

国の為政者は、この世的には、この事件を仕切って解決できる人が居ないと云う理由で、放置することもできるかもしれません。放置されれは、霊的な責務のある人が、行わなくてはならなくなるとも言えます。元長官は、自分には良心に問うても自分に責務が無いと真実想うなら、想うところを全て、国の公安委員会に懺悔しなくてはいけないのです。当人が国家公安委員会委員長ならば、あの世に還ればは間違いなく地獄に行くことになると思います。何処かで道理に反することを行わざるを得ないのです。道理に反することをすれば、ポイントを相手に稼がれたことになるのです。こうして、次第に深い地獄におちて行くのです。国家買う案委員会の委員長でなければ、率先して良心にしたがって内偵に協力すれば、当事件に関し限れば、地獄には落ちないでしょう。この世と霊の世界は、別々に存在することになり、霊の世界は無いと同じになります。この世の責任は霊の世界の責務が反映されますので、退官して責任は消滅しても責務は残ると思います。

2011-03-⇔木洩れ日の空間「この世は霊の世界に浸かっていると云う意味」より

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2013年12月28日

事件は社会風潮にも責任があります

 




国の公安当局の立場からすれば、ノウハウ事件に関する人権侵害は、 仮に私が、何処かから外部情報を得られるパイプが存在していれば、人権侵害には相当しないのかも知れません。責任者は、パイプが存在しているものと界違いして居たかも知れません。事実は該当するパイプは存在しないから人権侵害になるのです。又、公安当局の間違いを逆説的に捉えれば、仮にパイプラインが存在してたとしても、公式にノウハウ事件が存在しないことになっていれば、情報パイプラインを証拠として、私の主張する人権侵害は存在しないとして公表することもできるのです。しかし、現在に至れば、上記行為は、自分達の犯罪性を証明することに過ぎないのです。何故「もつと早く解決しなかったか!」

公安当局は、私を抑え込むことばかり考えていたから縁起の法が起動してしまったのです。その責任は重大であります。霊的にはその場その場の善悪より、縁起の法を起動させた方が罪が大きいのです。具体的に縁起の法が戸のように進展したか?述べることにします。その場の都合(私を抑え込むこと)に囚われて私のパイプラインに繋がる人達に、幸福の科学大川隆法と同じように事件の存在を「言ってはいけない」などと使機械的に言葉の襲踏を行って、犯罪性の拡張を行うようなことを行っていたと推測するより仕方がありません。上記は、私からすれば「私を抑え込む行為」は、無意味と云うものです。(考え方が松本サリン事件と似てくるのです)

しかし、事件を存在しないことにして闇に葬るためには、仕方がないと考えなくてはならなくなります。例えば、カルト宗教の教祖が所有しているとされる、超能力はどのようなものかん?本当にあるのか?など、など。高官がそのようなこと立ち入ることはできないとする社会風潮も手伝ったと思います。実際に経団連会長(当時は豊田章一郎)の説明を受けたなら、仮に末端の人が聞いても最高責任者の判断を仰ぐことになるのです。片方が、名前を出せば片方も出さざるを得なくなるのです。些細なことで名前が出せないことが障害になって大きな事件に発展したと言わざるを得ません。上記批判は、当局からすれば実情(社会風潮⇔社会的地位の尊厳を護らなくてはいけないとする風潮)に照らして無理な言い分になるでしょう。だったら私は、何故私の方にさじ加減をしなかったかと言います。(これからでも同じ)

2011-03-03⇔木洩れ日の空間「事件は社会風潮にも責任があります」より

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2013年12月23日

因果を追及すれば、組織の責任は「個人の責任に分解できる」より




宗教の教えが、正しく永久に存続すれば、(不可能かもしれませんが)組織腐敗は自然消滅、叉は、少なくとも野放しにはならないのです。間違った教えを撲滅する方が、組織の腐敗を防ぐより重要課題なのです。国松元長官は、オームの件で幸福の科学に弱身を握られている(もしくはポイントを稼がれている)可能性もあるのです。この世的には組織の長の弱身など握られも、長を変えればさしたる影響はないように観えますが、霊的には大きな意味があるのです。何故なら因果の追及が存在するからです。上記から、霊的な因果を説けば、嫌でも組織の有りように踏み込まざるを得なくなるのです。

この事件に関しては、個人的に元長官の不手際を非難しても仕方ありませんが、幸福の科学が、何のために過去の他人の弱みを利用して、現在の自分を有利に導こうとするのか?(目的が違うのではないか?)目的がゆがめられていることは否定できません。自分の心にやましいものがある証になるだけです。獲得したポイントを他事に利用するならとんでもないことです。但し、当事件に関係するものなら仕方ありません。参考として、親(自称養父)を非難されれば当然とは思いますが、大海勉君は私が、国松元長官の名は出せないと想っていたなら、警察の権威を後ろ盾にしていたと言わざるを得ません。

彼自身が、自分が責務務さえ果さなければ、私は自滅すると思っているに違いありません。。いつかは、私をヤッケてやろうと思っていたに違いありませんが、私はそのように想われる謂われはないのです。勝てる裁判をコチラから避けたののです。被害を蒙るのは彼ではなく洋一君(自称養父の孫)や裕美さんになるからです。非人道的なことができなかっただけなのです。計算と言えば言えますが霊的に負ける分けはありません。(愛ではなく膳になりますが、計算の全くない純粋な想いなら反作用が起きます⇔どちらにしても同じ)彼の責任は大きいのです。権擁護委員会は情理を尽くして納得させていただかなくては何時まで経っても事件は解決しないと思います。

(2011-03-02)⇔木漏れ日の空間「因果を追及すれば、組織の責任は「個人の責任に分解できる」より



 




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2013年12月19日

仔細な教義の間違いから縁起の法則が働いた




私がウラで始末されそうになった根拠は41年前(2011年基準)の豊橋警察署の前で起きた交通事故を勘案すれば、全く根も葉もないことでは1ありません。良心に照らし合わせても推測可能なことです。時は隔たりますが、関口元警察庁長官に自己責任がなければ、私が警察に狙われる根拠を長官は、洗いざらいに公の前に述べるべきです。如何に自分には責任がないと主張しても霊的には連座することになるのです。あの世に還ってから良心との格闘を行わなくてはならなくなります。今生のことは今生で決着をつけておくべきです。

前任者の国松元長官も自己責任を問われれば、自分の立場を弁護するために役職上のシガラミを持ち出さなくてはならなくなります。このようにして順次遡れば、どうなるか?考えれば、いっそのこと私を始末することを前提として(必ずしも始末する意図はなかったと思う)封じ込めてしまはば、(10年ほど前は推測できる明らかな行為があった)一番手際の良い解決策になったのです。そのような事態になったそもそもの源は何か?現在(2011年)に至れば、凌辱事件とすることもできますが当時は思いもよりませんでした。ノウハウ事件と思っていました。

推論すれば、「愛なら何を行っても良い」と云うGLA教祖高橋佳子の教えから、講師などを経て「嘘を云うのも愛の内」などと、勝手に変質した教義が原因であると考えざるを得ませんでした。私は官僚組織が霊的に観て、純粋な愛に基づいてに運営できるものではないことを知っていますので、自分の関係ないことまで持ち出されることは、心外であると思っておりました。これまでには述べませんでしたが、今となればトヨタの代弁の形で述べる必要を感じます。些細教義の間違いから、縁起の法が働いて解決不能な事件となったと言わざるを得ません。

トヨタはこのことを私に告げたかったものと思います。しかし、言葉で告げる手段がなければ、蜃気楼で警告しくなくてはならなくなるのです。それは知ってるから心配無用なことででした。知ってはいましたが、蜃気楼で意味の重大性が解かったことも事実です。(当初は、そのようなところに踏み込まなければ済むことで、そんなに重大なのこととは思わなかった)カルト宗教が、掃除をすると云う名目で、利用したかったのかも知れません。(又は、トヨタが掃除をすると云う事だったかもしれません。詳しいことは当事者しか知らないことです)そして、不可能ならば途中で方針を変更して、私を生贄にすればよかったのでしょう。怒り心頭にくると云うものです。(2011-03-01)⇔木漏れ日の空間「仔細な教義の間違いから縁起の法則が働いた」より

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2013年12月15日

霊的に良からぬ存在は魂の偏りと言えます




霊的に目覚めていると云うことは、霊的な知識を持っていると云うことでもあります。上記から、霊の世界、即ち想念の世界で於いても低次元世界では、良からぬ存在の存在も説明できます。どうゆうことか?と言えば良からぬ存在はバランスを崩していると云うように考える事ができます。偏りのある魂と考えることができます。偏りが生じると視野が狭くなり、光の量もすくなくなり、魂のランクが下がると考えることもできます。以上から霊的な滋養下巻刑が生じると考える事ができます。しかし、この世、あの世(霊の世界)を通じて如何なる世界に於いても目上の者は、目下の者に、その人の認識範囲内で客観的に正当な批判をされるようなことを行っていてはいけないのです。

但し、的外れな批判は指摘しなくてはいけないのです。指摘する手段が無いようなことを行っている人は自己責任になります。私は家内の的外れな批判にホーページで答える必要があるのです)人間の場合は、少なくとも間違いがあれば認めなくてはいけないのです。目下の者が目上の者(この世の社会的な序列)を批判すれば、霊的な害が及ぶようなことを行っていてはいけないのです。霊的な意味で間違った批判を受けても霊的には害は生じないのです。特定個人の認識能力の範囲内で批判してもバチは当たらないのです。(さもなくば、認識能力の低い者はマインドコントロール叉は盲目的服従から逃れられなくなる)

注:この世的な上下関係は方便の要素が入っておりますので、部分的には上記に相当する箇所があっても、厳密には上記には相当しません。叉、上記全般に関しては、取締り当局にも当然言い分があると思いますので、お聞きいただける人には、聞いていただいた方がよいと思います。(国民の立場で)以上についても大部分は後知恵による理解でありますので、守護霊のお導きと感謝しております。(守護霊とはこの世的には自分自身である。この世的な自負分自身には、守護指導霊や悪魔も同居しているのです)

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2013年12月08日

霊存在を認めるとは社会通念として認めると云う意味




私の云うところの、霊存在を認めるとは社会的に認めることであって、法律的に認めることではありません。証拠の提供できないものを法律の場に適用できる訳がありません。法律的に認めないことは、社会的に認めるか、認めないかには関係ないと思われるかも知れませんが、行政指導と云うものが存在する以上、思想背景も考慮しなくてはならないのです。無関係ではなくなります。例えば、うかつな指導をしてバチが当たった(反作用が起きた)などの事態が生じれば大変なことになります。

当事件(ノウハウ事件)で云ったら、ウラ事情を私に告げたら本当に私が死んだ。叉は、死ぬ展開になったと云うことになれば、行政指導の責任になります。誰かが死ぬにしても、因果的な思想背景や正当性も吟味しなくてはならないのです。反対にバチが当たったと主張しても、現象には、何らかのこの世的原因があるのだから、霊的因果などを吟味しても、霊存在が社会的に認められないものなら、行政の責任にはならないのです。(ここでの責任とは風評の次元のものになります)

神の権威を持った人間が存在する社会で、霊存在を認めることは大きな危険が伴なうものと思います。霊存在を認める社会を求める者は、自から神の権威を主張すべきではないのです。又、上記の逆説として、神の権威を持った者が居ない社会は、霊存在を認めなくてはならないと云う論拠もありません。論理的な取引はいけません。霊的要因は深遠で多義にわたりますので、霊的要因を考慮しなくてはならない社会では、この世的には同じ現象でも霊的な解釈は新説が次々にでてくると考えなくてはいけません。

悪しき現象に対しては、取り締る側は、新たな情報に基ずく要素が加わることも考えられます。対応するためには方針も次々にを変えなくてはならなくなります。具体的内容にもよりますが、他方行政の指導方針が変わったから、宗教理念に関して教義内容を変えてもよいと言うものでもないのです。現実の社会では、未だ悪しき霊的現象に関しては取り締り、指導は行われていないとしても、民衆を含めて、霊的な知識を持っていることは必要であると思います。2007年11月30日⇔木漏れ日の空間「霊存在を認めるとは社会通念として認めると云う意味 」より再編集
 

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2013年12月04日

愛を逆手に取られれば国も勝てなくなる




利用は勿論、愛ではありませんが、この世的には責任を取れば何ら咎められるものではないのです。叉、間違った愛ではないから、対象となる人間そのものには責任はないのです。(真実の愛なら責任など取る結果は起きないのです。責任が生じたと云うことは、間違った愛であった証)だから、他事に付いては非難はできます。勿論、不当なものはいけません。ですから、利用は、愛ではないからいけないなどと云う論理などないのです。それは愛を逆手に取って対象となる人間そのものを非難しているに過ぎないのです。

真実の愛のつもりで行った行為にも、責任が生じる場合が当然ありますが、その場合は、責任を取ればよいのです。責任を無視した愛の概念だけで、(自分が愛そのものであるかのように前提としたもの)具体的な現象を無視して、具体的な個人、相手や事柄に対処する行為が、私の云う愛のふんどしで相撲を取ると云う意味です。このような思想に対処していると癖、癖としてくるのです。

批判をしても、「チョツト違う」などと言われるだけでヌカに釘なのです。批判行為をとった方が、(言葉で批判でなければ行為に出すしか仕方がない)自己責任で死ぬはめになるのです。マトモナ人間なら愛のふんどしで、相撲など取れないことを良いことに、特定の人間のみが、愛のふんどしで相撲を取ることが許されれば、どうなるか?全ての人間に許されれば、社会の秩序はどうなるか?皆様も考えてみていただきたいと思います。

国家権威といえども愛のふんどしで相撲を取られれば、論理的には勝てないのです。無視せざるを得ないと思います。即ち、論理的には、ウラで始末するより仕方がなくなるのです。但し、愛を盾とする思想を許されなければ、ウラで始末する必要はありません。国が教義を改めさせるなら、特定個人は、神の権威を持たないものにしていただく必要があるのです。神の権威を持ったまま、その時その場の都合で、教義内容だけを次々に変えることも可能なのです。指導しても、何の意味も無いのです。指導で解決するなら、弊害の根本を変えるよう指導する必要があるのです。

2011-02-25⇔木漏れ日の空間「愛を逆手に取られれば国も勝てなくなる」より

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2013年11月28日

これが矛盾と云うものです




創価学会や公安当局、国民一般は幸福の科学を叩きたいのであって、GLAを叩きたいのではないのです。(2006年当時)従って私は生きているのだから、トヨタ&GLAを潰すことはできないものと思います。(間接的に幸福の科学が邪魔をしていると云う意味)さもなくば、谷口健彦、中野富敏を逮捕dしてノウハウ事件は解決できたと思います。そうするとトヨタにも責任及ぶものと考えられます。ですから、トヨタは先にGLAの間違いを法律的に咎めなくてはいけないのです。これほど明白なことなど無いのです。しかし、そうなると幸福の科学の責任が消えてしまうのです。

幸福の科学大川総裁は、宗教のことは宗教で解決すると公言した以上、トヨタとしても、任さざるを得なかったと思います。しかし、結果的に解決できなかったからと云って、何ら責任を追及できないのであれば納得のできる話ではありません。私の立場としては、殺人の脅威、脅迫、人権無視、詐欺などが仮に幸福の科学にあったとしても、(蚊帳の外の存在であることに違いはない⇒当家にとって現況では成功祈願が成就することはない⇒事実の存在と責任の帰趨をめぐって私が勝つか、家内が勝つか、の問題が生じているのだから⇒私が勝てば幸福の科学にも責任が及び、家内が勝てば真理に反するのです)

私にとっては、トヨタ&GLAを差し置いて、幸福の科学を批判することは、道理、筋道としてできないのです。インターネットで実情を公開するしか打開の道がないならば、その行為は正当防衛と言わざるを得ません。それとも未だ私にストレスなどを媒介として、「死ぬ筋が存在している」と言うのですか? 實君もストレスが死因だったのではないのか?と疑いたくなります。遺族は、そのストレスの原因を私に転嫁すれば、逆恨みの原因となります。自称養父と豊田の犯した罪などGLA、幸福の科学が裁ける分けがありません。裁けない人に任せていれば事件は何時まで経っても解決はしません。

未だ殺人などの重大な事件は起きてはいないと想っていますが、既に起きているのでしょうか? 疑問が生じます。私には判りませんが、解決の手段のは記述は、推測に根拠を置いたものです。推測での記述べるは、事件の内容に関して捏造防止のため止むを得ないと心得ています。(ここが重要なポイント)又、あまり褒められた事柄ではないにしろ、トヨタが私の知的能力が予想外に優れていたために、力でねじ伏せることができなく、予想外の展開になった。と自己弁解できても、宗教や国家公安には、そのような弁解は通用しないものと思います。

解決がむつかしいと云っても、客観的に捉えても人権侵害を放置されていてよい分けはありません。目に見える形の被害はなくても、精神的なストレスは生じるのです。ストレスは様々な障害や、命さえ縮める要因にもなるのです。このことは私のみではなく家族全員について言えるのです。幸福の科学で祈願など行っても解決はしはしないのです。解決しないことを知っていて、祈願料を支払わされることになれば、詐欺になるのです。幸福の科学は祈願勧めるならば、公安委員会に実情を訴えなくてはいけなかったのです。私からは「国の家公安当局は」はシッカリしてもらわなくては困ります。

2011-02-23⇔木漏れ日の空間「これが矛盾と云うものです」より
 

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2013年11月24日

間違いを生かすとは何なのだ!




この世的(存在)の事実を、霊の論理を持ち出して否定することはできないのです。現実の問題として、そのような論理は間違いが生じ易く、叉、霊的存在にも悪いものがあると云われています。いわゆる悪霊、悪魔です。このような類は、一目でオレは悪魔だなどと分かる形はとらないのです。ですから、外見だけの判断ではなく、言行が一致しているか?否か?で判断しなくてはいけないのです。「ヤッテ悪いこと」とは小田島氏名義の手紙のことか?それならば、高橋佳子は中野富敏を咎めたことになるのです。私が「弘法大師の生まれ替わり」と云っことか?ハッキリ明示しなくてはいけなかったのです。

ヤッテ良いことと悪いことがあると云っても、お地蔵様に小便をかけることとは意味が違います。(禁止行為を明文化する必要は無い)ヤッテ悪いことがあるならハッキリ明示しておかなくてはいけないのです。それさえ出来ないのでは、因果を法律と同一視したものと見なさざるを得ません。口には出さねど、無言の圧力をかける行為は、道徳を指針としたとしても無理が出ます。いけないものはハッキリ言葉で明示しなくてはいけないのです。霊的存在をこの世的に否定することとは意味が違います。又、高橋佳子の間違いを生かすと云う教説は、自己の間違いのみか?他の間違いをも含めてか?そのまま生かすのか?教訓として生かすのか?もハッキリさせていませんでした。従って教えの間違いか?解釈の間違いか?さらには間違っていないのか・さえ客観的に判別できないものでした。

このような曖昧な特定個人の霊的概念で、(あの世では通用するとしても⇒想いの世界だから想いの中身も解る)人間の賞罰ができると皆さん思いますか?考えていただきたいと思います。GLAは教義を捨てて解散すれば良いのです。これは命令とも取れますので、私の云うべきことではありませんが、一般論としては、その様になると云う意味です。マスコミ関係者には、ノウハウ事件に関するアニメ映画でも作って貰えば解決の糸口にはなります。しかし為政者の意向で解決しないのならば、解決しなくても良いのです。私としてはインターネットでこのような事件が存在していたとこ公表を続けるだけです。

(2011/02/22)⇔「間違いを生かすとは何なのだ!」より

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2013年11月20日

良心の呵責と地獄の関係について



 

死後の世界の地獄とされるものは、良心との格闘を意味していると私は思います。心のどの段階で良心の呵責を受けるか?の問題なのです。浅いところの方がよいのです。良心の呵責を表面意識で受け易い人は、地獄に行くにしても浅い処でしょう。そのような人は、天国行きの要素も有ると思います。地獄は見聞程度で済むことでしょう。天国行きの要素が無ければ、半永久的に浅い地獄を徘徊することになるでしょう。人間の意識の中で一番浅いところは表面意識なのです。(顕在意識とも言う)このような人に忠告するなら良心と格闘することのないように、頑張っていただきたいと云うことです。

良心との格闘とは、自分が全く悪いことをしていなければ、呵責は受けることはありません。悪いことを行わない人でも、悪いことを行えば、良心の呵責を受けることを無意識の内に知っているから、悪いこととは言わないまでも、自我の赴くままの行為ができず、思い悩むと云うものも良心との格闘なのです。一般的にナイーブと言われるタイプの人です。しかし、そうでない人もいます。いわゆる仏様のような人です。そういう人は死後天国直行でしょう。天国直行も低いところと高いところがあるでしょう。順を追って上がる人もいるでしょう。それも千差万別でしょう。

その他に芳しくないものとして、実際には悪いことを行っていても、自分で悪いことを行ったことに気付かなく、勘違いや思い込みから、自分は、悪いことを行ってはいないと、表面意識で思っているだけの人も居ることでしょう。俗に云う恥を恥と思わない人も、表面意識では、良心の呵責は受けていないでしょう。しかし、良いことにしろ悪いことにしろ、行ったことは、全て潜在意識や深層意識に記憶されているのです。これは、あの世の話しではなく心理学で証明されているのです。上記に該当する人はあの世に行ってから良心の呵責を受けなくてはならなくなるでしょう。

深層意識や潜在意識に記憶されているもの殆どは、忘れていて表面意識で自覚することはできませんが、その原因の多くは不要なものだからです。その他の原因として、自分に不都合なものも忘れ易くなります。不都合と云っても事柄は忘れにくいものです。不都合の中の多くのものは、良心の呵責に関する件でしょう。しかし、死後の生が存在するならば、そして、魂と云うものが、霊的に説明されているようなものであれば、この世で培った正当化や思い込みが清算されることになります。深層意識そのものが表面に露に出てきて、嫌でも自らの本性を自覚しなくてはならなくなり、良心との格闘が起きるものと思います。

しかし良心との格闘、即ち言い訳などで勝ったとしても、償なわなければ絶対に解消できないのです。以上までは、論理的に理解可能な事柄あると思います。この世ならば良心(神)との格闘の末、解決の道も見つからず思い悩んだり、他人から蔑まれたり、罵倒されるなどの生き地獄を味わう訳ですが、あの世では言われているような炎の地獄(怒りに燃え狂っている状態)針の山(周囲から後ろ指を指される状態)や血の池(淫蕩に耽リ抜け出せない状態)で暮らすことになるのか?どうか?は知りません。行って見なくては解からないことです。

少なくてもこの世において良心の呵責を受け易い人は、素直に良心に従えさえすれば、地獄に行くことはないものと思います。しかし、以上の論理をカルト宗教が、己の利得のために「神の意志に背くと地獄に行く」などと悪用すると云うものであれば、許しがたい行為と言わざるをえません。尚、悪を悪と自覚して行っている者、即ち悪党は良心の呵責などは受けることはないと思われるかも知れませんが、それは正当化や言い訳で防御しているのです。鎧、兜で防御しているとも言えます。叉、良心の働きが鈍いとも言えますが、心の深い部分から鎧、兜で防御しているとも解釈できます。

注:上記に関しては、私が良心の呵責の意味の探求や心理学の知識から類推した、地獄観を述べたものに過ぎませんから、事実か?どうか?に付いては責任を持ちかねます。そもそも私は、あの世の存在に付いて、多分あるだろうと思っていますが、あるとは断定していないのです。しかし、反対にあの世は無いと思っていて、死んで見たら有ったのでは駄目なのです。注3:キリスト教もイスラム教もあの世の存在、即ち天国地獄の存在は肯定していますが、生まれ替りは正式には認めていません。生まれ替りを認めているのは仏教系、インドのヒンドゥー教です。

 2011-02-21⇔木漏れ日の空間「良心の呵責と地獄の関係について」より再編集

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